昭和42年07月15日 朝の御理解
「生神金光大神様、天地金乃神様、有難う御座います、謹んで御礼を申し上げます」と日々朝晩に御信心、御神前で奉上さして頂きます。天地書付の昌頭で御座いますね。生神金光大神様、天地金乃神様有難う御座います。と、私はここのところでですね、お互いの信心が決まると思うですよ。皆さんが唱えておられる時に。ほんとに生神金光大神様と唱える時、天地金乃神様と唱えさして貰う時。
有難う御座いますもう是で私共の信心の、まいうなら深さとでも申しましょうか、ほんとに有難さと申しましょうか。神様はもし拝詞を奉唱さしてもらう時にです。その一事で、あっこの信者はどの位の信心、どの位の有難さと言う事をお感じになると思うですね。皆さんどうですかもう生神金光大神とお唱え申し上げる内にです、もう心が喜びで一杯になって来る。生神金光大神様お現われたおかげで私の今日がある、ね。
しかもその生神金光大神様のおかげで、天地金乃神様のおかげを受けられるようになった。しかも生神金光大神様ご自身がおかげを受けられた事を、神様から直接にお伝えを受けられた事を、私共に話として残しておって下さった。その話を聞かして貰、いわゆる分からして貰うてね。私共のいわゆるあらゆる難儀が助けられね、神も助かり氏子も立ち行く道の開かれました事は真に有難い事で御座います。
とこう言う事をね、あらゆる難儀が助けられ、神もしかも助かり氏子も立ち行く。神も助かり氏子も助かっていけれる。そういう道を開かれたと言う事が。なんと有難い事で御座います。と天地書付を奉唱さして貰う時にですね、もうその辺までをお言葉に出して唱えます時に。もう本当に信心冥利と申しますかね。皆さんどうでしょうか。お願いをしておかげを頂かなければ、いっちょん有難くなられない、自分の思う事ならなければ、ひとつも有難くなれない、ね。
なるほどそう言う所から、信心は始められるので御座いますけれどもね。結局それはどう云う事かというと、あらゆる難儀が助けられてと言う所の、あらゆる難儀が受けられて、いないからじゃないかと思います。あらゆる難儀から助けられ、私共がそのあらゆる難儀を助けられておるのだから、しかも生神金光大神のお徳によって、おかげが受けておるから生神金光大神とお唱えしただけで、心の中が痺れる様な有り難さを感じる、もう嘘じゃないです。本当です。
ほんとにどれ程お礼を申し上げても、お礼を申し上げても尽きぬと仰るがほんとに限りがありません。しかもたった是位な私。たったねこの位な信心しかでけない私にも拘らず、おかげを下さっておると云う事がですね。又どれ程お詫びを申し上げても、お詫びの申し上げ様が無い程の自分であるのにも拘りませず。神様はこういう尽きぬおかげを下さってあるということ。ね。世の中には様々な難儀が御座いますですよね。
昨日私午前中御取り次ぎさして頂きました、中でもまぁあすこに十件ばっかりですかね。十人ばかりの方のお取り次などは、ほんとに難儀な事だなあと。こう思うので御座います。ほんとに涙を流して、お願いをなさっておられるので御座います。成程明日もそうあんなさいますでしょうね。と同情しなければおられませんけれども。一度私がです私自信の信心から見るとですね。
ひとっつも涙の出る程の、苦しい事でもなからなければ、困った事でもないのですね。もうそげな事は問題じゃないですよ。そげなこつはどうでも良いという気になりなさい。ま例えて云うと、一人の息子さんと御主人とがどうも仲が悪い。こりゃ家を出るの、出らんのと云うて、大変難儀をお母さんがしておられる。お母さんが熱心に参って来ます、ね。御主人がもちっと分かってくれますと、ほんとに子供がも少し理解があってくれますと、ほんとに問題は起らないでしょうね。
とこういう感じなんですけれどもです、それを貴女が主人の身になったり、子供の身になったりして考えるから貴女自身の身が、置き所の無いごと晩は眠られんごと心配なんです、だからどうですかどうでも良かちいう気になんなさい。楽ですよというたって中々そんな難しい事。けども私共はそれなんです。おかげを段々頂いて参っておりますから、どうでも良いと思うておる、どうでも良いと思える位有難い事はないです。こうならんならんあぁならんならんとね。
そりゃ願いは持っておりますよね。例えばそのお母さんの場合ですね。主人があぁってくれます様にと。私でもやっぱり思うでしょう。そういう風に息子が分からんなら、息子がこうあってくれるとと思います。けれどもですねそう思うた所で自分の思う様にはならんのですもの。しかも又是は私の小さい願いであり小さい思いですから、神様はまだどういうおかげを下さろうとしておるやらも分からんのです、お取り次を頂いてお願いをして、神様にお願いをさして頂いて。
もうそれから先は神様どうでも良いという気にならせて貰うと云う事ね、私はそこんところまでおかげを頂いて参ります為に、信心がほんとに楽しゅうでける様に、おかげにならにゃいかんと思うですね、昨日おとといでしたか、そこの合楽食堂の中村さんが、それこそ日に暇さえあれば参って来る、参りたいんです。もう暇があるならお参りしたい。部落の人達、何か若妻さん若妻会かなんかあって、温泉かなんか行くという話がある。まあ私共そげな時間があるなら、もう一日もしそげな時間があるなら。
もうお広前に一日おらせて頂いて、あれこれ御用どもさして頂いて、合間合間にあの有難いお話を頂かして貰うならもうこれが極楽。もう温泉よりも何よりもそれがいいと思うばってんと、話しました。と言う様なお届けをしておられました、ね。信心がですねそう言う様な事になって来なければいけんのです、んなら中村さんが初めからそうだっただろうか、決してそうじゃなかった。
ま人が椛目椛目と云うて、あの当時ですね、参らにゃどげなとこじゃろかというて、好奇心半分でついて参った。初めの間はこげなこつまでお願いしちゃと思うて、あんばい見の様なお届けやらお願いやらまあ失礼ですけど、そんなこっちゃなかったじゃろうかと思います、ね。一番難儀に感じて、当時おられたお母さんの病気と言った様な事が、神様にお願いなさる、まあ信心の動機になった訳で御座いますけども、ね。
そういう願い事がです、ひとつひつと適えられて言った。お話を聞かして頂けば頂かして頂く程、今まで知らなかったこの神様がですね、ほんとに相済まない事であった。ほんとにもちっと早よう分かっとったなら、と思う様になって来た。まあ元とる為という意味でも御座いますまいけれども、人が一辺参る処は三辺参ってでも分からして頂きたいと、意欲願いが、しかも楽しゅうでける様になって来た。
私は信心はですねもう楽しゅうでける様にならにゃいかんのですよ、朝の昨日の朝の御祈念の後に、原さん達夫婦に私が話をするのです、毎日もう十何年間夫婦でお参りが続けられております。それで私が、どうでも信心が楽しゅうなんなさいと、御主人に私が云う訳なんですよ。あなたは素晴らしいものを内容に持っておられるけども、あなた自身も気が付いておられない。いいえ私は頭が悪かですけん、今度熊本の金光教の大会が、九州大会が御座います。熊本でその一番花形と申しましょうかね。
九州中の信者から選ばれて二人の方がお話になります、南九州と北九州から。北九州からは有名な甘木の御信者さんが発表されます。南九州からは先日もプログラムを見せて頂いとって、私はびっくりしたんです。原義博さん、あ博義ち書いて御座いますもん。ありゃ、こりゃ原さんあぁたんとこの弟さんじゃなかですか、一番初めにここに御神縁を頂いて、何回か参って見えた信心の有難さが少こぉし分かって来た、私ほんにここが近いならお参りしたいけれども、と言う事であった。
現在鹿児島に行っておられる。鹿児島から参る訳にはいかんから、鹿児島には善導寺の親先生の弟にあたられる、行徳先生という方がおられますから、そちらにお導きさして頂いた。是非あちらへ帰られたら、あちらへお参りされる様にというてお参りを始められたのが、もうどうでしょうか七、八年ぐらいでしょうかね。まだその位でしょう。そこでその原さんがいわれる様に矢張り頭がいいですから。
お道の信心の有難い事が、どんどん分かって行くと同時におかげも受けていかれた。今度その方が九州代表でお話をされるんですよ。もこの大会のみそというのはですね、矢張り信者の体験発表が中心になるのですよね。どれだけ九州中に信者がおる、お道の信者がおるか分かりませんけれども。ただお話が上手であるとか、と言った様な事ではない。ほんとに信心生活が出けさして頂くと言う事が、こんなにも有難いものだと発表されるに違い御座いませんけれども。
恐らくはその中村さんじゃ御座いませんけども、兎に角お広前にお引き寄せ頂くと云う事が楽しゅうして応えん、お話を頂く事が有難うて応えん、どこで信心の話があるといやあ、もう聞きとうて堪らん、どこから信心の話に来てくれといわれりゃもう自分の頂いとる、この有難さを聞いて貰わなければおられない。鹿児島だけの大会の時もやっぱりお話をしておられます大変な評判だったそうです、ねもう弟は頭がええですけん、私ゃ頭が悪かけんでとかいうて原さんそげなこっちゃないですよ。
例えていうならあの洋服の仕事というものはですね、裁断から仕立てしかもその一人一人に気に入る様なその、創作をしておいでなければならないという仕事程、私は難しい事は無いと、あの洋服の仕事を覚えなさったというだけでも、とても頭の悪かもんで出来るこっちゃないですよ。あぁたが洋服屋の弟子にでもおいでられた時の気持ちで、信心を打ち込まれたら素晴らしい事でしょうが。というてお話した事でした。
ほんとに道を覚えて来たら、楽しゅうなって来るも、こればお願いせにゃんけん。苦しい事があるけん、これば困っとるからいわゆる悲しい時の神頼み的な信心からです、一歩前進さして貰わなけりゃいけません。「この方の信心は病気治しや災難よけの神ではない、心治しの神じゃ」と仰るから、本気で自分の心直しと言う事に、取り組んだだけでもです、楽しいものです何故って自分で美しゅうなって行くものね。
限りなく鏡に写る自分の姿というものが段々夢美しゅうなって来るもん、楽しゅうして堪らん。勿論教この鏡ですよね同時に自分自身と言う者が分かって来る、自分自身が分かって来るち云う事が素晴らしいんですね信心は。昨夜もう丁度十二時半頃までお取り次さして頂いた、それから後の御用を暫く考えさして頂いて、又どうも頭が痛い、そしたら久富先生が違わん又肩が凝っとるとですよ、それから繁雄さんと久富先生と二人で又、そうですね、小一時間揉んで貰いましたでしょう。
二人ながら汗ブルブルになってから、涼しいとこで致しますけれども先生、こげんおさえたっちゃ痛くないとですか、ちもう痛かなんか気持ちのよかばぁっかり、皆さんでも体験がおありになるでしょう、ほんとに肩が凝っておる時に、もうどげん力入れたっちゃ、まちっとまちっとちいうごとある。それかちいうて右の方の肩をして貰うとですね。やっぱ少しは凝っとるけども左程でもないですから、力入れるとちょっとも少し力を抜いてくれといいたい痛いね。
自分自身が本当に分かる、自分自身のめぐりが分かる、自分自身の詰らなさが分かる。分かれば分かる程ですね。もうどういう修業をさして頂いても、それが有難うなって来るんですよ。自分な別に神様にお願いせんでん、お金には不自由しとらんし、健康ではあるしという人程、神様にお参りすると言う事を嫌います。とても私だんあげな事はでけん、とても金も要るし時間も掛かるし、とても金が掛かれば掛るほど、時間掛ければ掛けるほど有難うなってくるそうでしょうが。
めぐりの自覚を自覚がでけて来るからね。例えて申しますならばんなら濡れたお布巾ならお布巾というものをですね、火の上にこう持ってくる。ひとつも焼けもしなければ、焦がれもしません。火のそばに持って行っても焦がれん。これは濡れておるからです。ところが乾いておるのをこの辺まで持って来たら、ポッと燃え上がってしまうでしょう。私共のめぐりの深いと言う事が。
だんだん分かって来ると神様の側に寄れば寄る程、有難うなって来るのですね。んならばその神様のお側に、寄らせて頂くと言う事は、神様に近づかせて頂くと言う事が、いわゆる信心が楽しゅう成って来ると言う事がです、何故有難いかと申しますと。只今私が一番初めに申しました様にです。私が聞いたらひとつも難儀でもない事を、皆んなが難儀と思うておるじゃないか。心配でもない事を心配しよるじゃないか。恐くもなんもない事を、恐いと思うとるじゃないか。
先はどうなるじゃろか、もう心配所かお礼を申し上げなければならない事に、夜もろくろく眠られない様に心配しておるではないか。私共信心さして頂いて、恐い者もない。心配もない。それこそ( ? )有難い勿体ない事だけだと、言う様な生活を目指して頂く為に、お互い信心の稽古をさして頂かなければいけんのです。皆さんそうですよ。金光様の御信心は、ね。是はお願いの為のお参りをする所からです。
ほんとにお礼参りをさして貰わなければおられない日々。生神金光大神さまを唱えただけでも、身体がしびれる様にある。天地金乃神様有難う御座いますが、もうほんとに心の底から唱えさして頂けれる。しかもあらゆる難儀が、お取り次のおかげによって助けられる。而もその事が、神も助かり氏子も助かって行く。立ち行く事に菜って来ると云う事は、なんと有難い事であるかと云う風に、拝詞にうたって御座います様にです。私共があれを空読みしたんじゃいかん。
果たして自分の助かりと言う物が神も助かり。自分も助かって行く事になって行きよるのか。どうかお取り次のおかげになって、あらゆる難儀が助けられて行きよるかどうか。その難儀が一辺に無くなる訳では御座いますまいけれども。今まで難儀と思うておった事が、難儀では無いんだと。それは自分の身のめぐりを分からしても、御自分の言わば肩の凝りが、分かって来れば来る程に、どんなに強く、それこそこんなにひどく押しても。つまんでも痛くもない所か、それがもう気持が良くて堪らん。
それが有難うて堪らん。と言う様になると言う事がですね、恐いものも無くなり心配も無くなる。不安もない。私共はそういう生活を目指さなければいけんのです。是はもう信心、真の信心を頂かなければ頂ける事じゃないです。昨日御理解の後に北野の中村さんがお届けしておられます。先生今朝の御理解頂いてほんとに有難い。先生が仰った様に、日の内に一時でも信心を頂いておる事が、なんと有難い事であろうかと。分からして貰う事がです。以前は娘さんが二人一人に養子取っておられる娘が。
妹の方が福岡に縁に付いておる。何か知らんけれども恵美子さんちいいますが、も恵美子のとこに何時も行きたかった。信心が段々分かって来れば来る程有難く、段々分かって来れば来る程、家でじっといわば小さなお店をなさっておられますが、お店をしておられるその、ま中にも信心ちゃ何と有難い事じゃろか、何と有難い所に御縁を頂いたもんじゃろかと思うと、心が喜びで一杯に成って来る。
そう言う事が先生日に何回か御座います。とこういわれるね、その何回かがですね、三回か五回になる 五回か十回になる。それでその有難いと言う物が続けれる様なおかげを目指さなけりゃいかんのです、皆さんどうでしょうか一日に一辺でも、あぁほんとに信心を頂いておると言う事が、なんと有難い事じゃろかと、それが家内に話される。お母さん。どげん考えたっちゃ信心ちゃ有難い事ばい。
そういう話しをそういう雰囲気を聞いておる子供達がです、おかげ頂かん筈がないです。お取り次のお徳によってです、あらゆる難儀が助けられる所の、おかげを頂いて行けれるという道ね。どんな事の場合であってもです、それが難儀と感じんで済むという事はです。かえってその事が有難くならせて頂けれると言う事はです。矢張り私の今この左半身が非常に凝っておるから、どんな力を入れて押してもです。痛いどころかもう押さえて貰えば押さえて貰う程気持がいい。
どうでしょう世の中の難儀がです。もうそれこそどうして難儀が続くじゃろか、難儀が続けば続く程、有難うなって行けれると言う様な境地が開けた。そういう境地が開けた先にです。今度は信心の無い人が見ても、成程信心し御座ったが、ああいうおかげになっていくんだなあ、家庭が円満になって行くんだなあ、というおかげが頂けれるのですよね。 真に有難いと思う心がすぐにみかげの始めという、真に有難いという心が開けて来ると云う事ね。そこん所をひとつ願いとされなければいけません。
頼まんならんから修業する、おかげを受けんならんから参る、誰でも始めはそうでしょうけれどもです。ひとつお参りしとる内に、自分自身の内容と言う物が分かって来る、自分の家のめぐりというものが分かって来る、お話が身に付いて来る、ほんとに有難いものが生まれて来る。今日は金を掛けて、温泉にでも行きなさる事をたのしんでおんなさるならばです。同じ金を掛けるなら私は、お広前で一日御用をさして頂いて、お話でもゆっくり頂きたいという様な物が。自ずと何時の間にかでけて来る。
始めからそうではなかった。中村さんでも、北野の中村さんでも、合楽の中村さんでも同じ事。始めからそうではなかった。そういう有難さがおかげを頂く様に成りましたら先生もう本当にこの頃、初美というのが姉さんの方ですね、今お家を取って養子を迎えとる人、ここで楽の御用頂いとります。もうほんとに初美が大事にしてくれる様になりました、もうお菜ひとつ作るでも、兎に角お母さん中心。
お母さんがあれが好きだから。是がお母さんの口に合うからと云うてその私を中心にして、お御馳走を作ってくれるとこう云われる。も先生おかげを頂いて、この頃恵美子さん所に行きたいという気持が、全然起らん事なりましたと。こういわれるほんとに助かって行かれている姿なんです是は。ね。えてしてです自分所の娘やら、自分所の嫁やらはですね。どうも不行き届きであり、家別れをしとる所の娘やら、家別れをしとる所の嫁ごやらは、いかにも良うしてくれるごとある。
というのが普通一般、んなら始めから中村さんがそうであった訳でも無いけれども。自分の心の中に有難いと言う物が開けて来るに従ってです、そういうおかげが伴うて来ると云う事、そこで信心とは又なんと有難い事であろうかという。有難いと言う物が段々広く、大きくなって行くわけなんですよ。どうぞ皆さん天地書付を奉唱されます時にです、生神金光大神様天地金乃神様と申し上げただけでも、喜びが湧いてくる。
お取り次のおかげによりましてあらゆる難儀が助けられる、神も助かり氏子も立ち行く道の開かれました事は、なんと有難い事で御座いましょうかという時に。ほんとに自分自身の信心もですなんと有難い事であろうかと言う物が、心に頂けて来る様なおかげを頂く為にです。お互いが信心が楽しゅうなる工夫を一つ、どうでもしなければいけません。どの様な難儀と人がいうておりましても、ひとつも難儀では無い。私ならあれはお礼を申し上げるのにと言う様に成って来た時に。
私共の幸せがあるのではないでしょうか。行く手に怖いものはない不安もない、心配もない。難儀と感ずる事がない。それこそ極楽の世界というのが、そこに開けて来るね。私共がですね、日常生活の中にそういう不安の無い、心配の無い怖いものの無い生活を目指して、信心さして貰う金光様の御信心とは、それなんですそこを頂く事が私は、お道の信心の有難い事であると、私は思うのです。そこが分かってるから、まっなんと有難い信心を頂いたもんじゃろかと言う事になって来るのじゃないでしょうか。
どうぞ。